クレタ島は、地中海に浮かぶギリシャで一番大きな島で、美しいビーチ、セレブも訪れる高級リゾート地、ミノア文明発祥の地、豊富な農作物や珍しい草花、多くの遺跡、変化に富んだ地形や洞窟・渓谷などの恵みを観光のセールスポイントにしていますが、実は、その歴史は、戦争、占領、略奪、などの困難な出来事で彩られています。

今日は、その中の一つの悲劇的なエピソード、ギリシャ正教徒の聖地となっている修道院を紹介しましょう。

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クレタ島の北西部、美しい港町レスィムノンの近くに、そのアルカディ修道院はあります。16世紀に建設され、その優美で均整のとれたファサードを持つ修道院は、建築洋式としても大きな歴史的価値を持つ遺産です。向かい側の回廊の2階に上れば、修道院と、色とりどりの花に囲まれた美しい庭園を一望することができます。

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ギリシャは、15世紀にオスマン・トルコ帝国に占領され、1830年にヨーロッパ列強国によって独立を認められるまで、400年近くもトルコ支配による辛酸をなめてきました。本土独立後も、クレタ島は依然としてオスマン・トルコの支配下にあり、抑圧された生活であったため、誇り高きクレタ人たちは、自由・独立を求めて戦ってきました。

 

1866年の11月、独立を望むクレタ人による大きな反乱が起こり、それを鎮圧するためにトルコ軍が出動し、アルカディ修道院には、多くの追いつめられたクレタ人反乱軍とその家族が避難し、たてこもりました。その数は、女性700名、男性287名にも及んだといいます。そして、その中の45名は、ギリシャ正教の僧侶たちでした。この時代のギリシャでは、トルコ支配下にあってもギリシャ正教の自治は認められており、ギリシャ正教の教会や僧侶たちは、ギリシャ人たちの心のよりどころ、アイデンティティーを象徴していました。

 

トルコ軍に包囲されて降伏を要求されて籠城の後、敵兵が修道院の中に攻め入った時、その悲劇は起こりました。トルコ軍の捕虜になって辱めを受けるより、誇り高き死を選んだギリシャ正教徒達は、自らの手によって修道院の火薬庫に火を放ち、集団自決したのでした。その爆破により、籠城していたほとんどのギリシャ人と、多くのトルコ軍が死傷しました。「自由か死か」という誇り高きスローガンは、ギリシャ独立戦争を象徴するものですが、この事件は、まさに、このスローガンを有言実行したものでした。このアルカディ修道院集団自決は、ヨーロッパ列強国にも大きな衝撃を与え、一気にクレタ解放に手を貸すきっかけになった、重要な歴史的事件でした。

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修道院の中の壁や木には、トルコの砲弾の跡と見られる穴が痛々しく残っており、当時を偲ばせます。また、修道院内にあるミュージアムの中には、当時使用された武器や、火事から焼け残ったイコンや教会の備品、建物の一部、僧侶の個人的遺品などが展示されています。今では、その庭には美しい花が咲きみだれ、まるで地上の楽園のような雰囲気で、当時の悲劇が嘘のような静寂に包まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この修道院は、ギリシャの誇りを守った象徴として、ユーロ導入前のドラクマという紙幣のデザインにも使用されていました。それだけ、ギリシャの歴史にとって重要な意味を持つ場所なのですね。日本の「ひめゆりの塔」と決定的に違うのは、この集団自決は、戦争の悲劇としてというよりは、ギリシャ人の誇りと威信を守ったという「英雄的行為」として語り継がれているということでしょうか。

 

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