アテネでは、物乞いを良くみかける。

私の分析では、物乞いは次のように分類される。

 

1)            アート系: ギターやアコーディオンを弾きながら歌を歌う

2)            身体障害者系: 自分の体の一部を見せ(腕がない、足がない、やけどの跡など)同情を誘う

3)            幼児同伴系: 乳飲み子を抱えた母親が、ミルク代をせがむ

4)            ジプシーの子供系: 単にお金をせがむか、ティッシュ、花などを売りにくる

5)            家族が病気系(演劇系):「家族が重病で手術をしないと助からないがお金がない」と切々と涙ながらに訴える

6)            無気力系: 何もせず、何も言わず、ただ道に座っている

 

churchいつも彼らにお金をせがまれる時に、「どうするのが一番良いのか」と自問してしまう。特に、子供が来た場合、最近は小銭をあげてしまうことが多い。やはり、自分に子供ができて、あれが自分の子供だったらと思うと、身につまされるからだ。

 

お金をあげるのに反対意見は、「学校へ行ったり、働く気がなくなり自立の機会を奪うから良くない」とか、「お金は裏組織のマフィアの手に渡ってしまうだけだ」とか、「怠け者にあげるお金はない」とか、「根本的な解決にならないから」とか色々あるだろう。どの意見も一理あると思う。

 

でも、例えば、物乞いをしている子供が、稼ぎが少ないせいでマフィアの親分(あるいは実の親)に体罰されたりしないですむなら、または、そのお金でパンなど買って、空腹でひもじい思いをしなくてすむのなら、数ユーロ位あげたっていいじゃないかと思ったりもするのである。私の中でもいつも心は揺れ動いている

 

あるカフェで、4〜5歳の子供が、テーブルごとにお金をせがんで回っていた。その時、私はあげなかったのだが、遠くに座っていた黒衣に身を包んだギリシャ正教の聖職者(パパス)のところに子供が行った時、彼の行動をつぶさに見ていて感動した。

 

まず、子供の頭の上に何度も十字を切って祈り、それから優しく語りかけ、最後に何かを手渡した。それが、コインだったか食べ物だったかは分からなかったが、少なくとも、子供の顔に笑顔が見えた気がした。何よりも痛ましいのは、そういう子供たちの目はよどんで光がなく、笑顔も忘れているということだ。辛い人生の中で、たまにはいいこともあるんだ、と思ってくれるのなら、少しくらい、祈りや言葉やお金を与えてもいいのではないか?センチメンタルな甘い考えだろうか?自己満足だろうか?

 

私はキリスト教ではないけれど、あの聖職者の行動が印象に残り、影響を与えている。

 

あなたはどう思いますか?

 

(写真はギリシャ正教会)

 

 

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