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2月23日(木)

トリノオリンピックも終盤に近づいてきた。

今日はアテネオリンピックの思い出話を・・・

(写真は、メイン会場)

 

2004年8月、アテネは奇跡的に準備もほぼ終了し、オリンピックの里帰りを祝っていた。私は、二人目の子を妊娠中で、大きなお腹をかかえてできることも限られていたので、在アテネ日本大使館の内勤の仕事を手伝うことにした。

 

アテネの「ヘソ」、シンタグマ広場にある、リニューアルしたばかりの由緒あるホテル、キングジョージホテルの2階の宴会場に、日本オリンピック委員会(JOC)主催のジャパンハウス(選手団やVIP対象のホスピタリティーの場所)が設置された。その中で大使館の臨時出張所、インフォメーションデスクとして、情報提供やパスポート紛失時の再発行手続補助などの仕事をやっていたのである。

 

ジャパンハウスには、テレビや日本の新聞、雑誌もあり、きれいな部屋でテレビ観戦しながら座ってできる仕事は、妊婦には最高であった。(クーラーがききすぎで寒かったが、40度にも達する真夏のアテネにあっては、贅沢な悩みであろう)アテネオリンピックは毎日がメダルラッシュで、そのたびにJOCの方が模造紙に選手の名前を貼り出してメダル数をカウントし、毎日がとても楽しかった。

 

stadiumジャパンハウスには、色んな選手や、色んな偉い人たちもやってきた。卓球の愛ちゃん、柔道金メダルのヤワラちゃんや野村選手、アーチェリー銀メダルの選手などなど・・皆、思ったより小柄。私が大きいからかもしれないが、画面で見るより、ヤワラちゃんや愛ちゃんなどは本当に華奢で、かわいらしかった。スタジアムで見たマラソンの野口選手も本当に細かった。

 

競技前のインタビューや、選手や他国VIPを招待したパーティーもあった。そういえば、サラマンチ元オリンピック委員会長も来られていた。各国のお客様からは、独自のオリンピックピンを頂いたりして、ラッキー!(オリンピックピンは、コレクターもたくさんいる。)でも、憧れのハンマー投げの室伏選手には会えなかったなー、残念!数週間限りの、華やかで楽しい国際的なお祭り・・・観戦も10回近く行けたし、今、思えば街全体がウキウキとして、夢のような日々だった。

 

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ジャパンハウスには、お客様用に、いつも御寿司や飲み物などが用意してあった。これは、アテネ在住者にとっては画期的なことである。そして、1日の最後に残ったものは、JOCの方よりお裾分けしてもらえ、それが毎日の楽しみでもあった。(貧乏くさい?)

 

しかし、毎日のように現れる柔道関係者(選手ではない)がいて、いつも何回もおかわりをしてすごい量をたいらげて行くので、その人たちが来ると、一緒に仕事をしていた友達と顔を見合わせ、「今日も何も残らないかなー」とがっかりしたものである。日本でも、うちの近くにできた食べ放題の店がすぐつぶれ、それは近くの体育系大学の学生が毎日押し寄せたためと噂されている。新聞で読んだが、あの細い野口選手も大食漢なんだそうで、やっぱり、食はエネルギーの元なのだなあ、などと思う。

 

ある日、皇室関係のやんごとなき方がご夫妻でいらっしゃり、ジャパンハウス内を見学された。そして、お帰りになったあと、そのテーブルに置いてあった、レモンの木の鉢植えの置物がお気に召されたらしく、それをご所望になったのだ。地中海っぽい雰囲気が良かったのだろうか?その置物は、JOCの方が設営の際どこかで買われたものだが、もう、既にそのご当人は帰国されていたので、どこで買ったのか分からない。

 

大使館の方から相談を受け、私がありそうな所を探して回った。そして、見つけました見つけました!エルム通り奥のパレットハウスで!パレットハウスとは、リーズナブルな雑貨、家具、食器、インテリアなどを売るチェーン店である。そして、そのレモンの木の置物は、わずか数ユーロのものだったが、残りわずかで、あやうく売り切れになるところだった。間に合って良かった良かった!

 

それは、大使館の方が後で買ってお渡ししたはずだ。オリンピックの思い出として、今もどこかに飾られているのだろうか、それとも、誰かにお土産にされたのだろうか・・・それぞれの人が、それぞれのオリンピックの思い出を持っていると思う。そして、今となっては忘却のかなたへ・・・

 

でも、私は今でも時々、記憶の引き出しから引っ張り出しては、牛のように反芻して楽しんでいる。